2012年05月17日
先週の説教要旨(2012/5/13)
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながったいる枝で実を結ばないものは、父がすべこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである」熊本の河内に、ルーテル教会の牧師だった先生が始めた「からたち保育園」があります。まわりはみかん畑なのに、なぜ「からたち保育園」なのか、そこの園長先生が説明してくれました。みかんの根は病気に弱く、水を吸い上げる力がないので、まず畑にからたちを植えます。からたちは病気に強く、水を吸い上げる力があります。それで、からたちがある程度大きくなったなら、幹だけ残しあとは切り取り、その上にみかんの木を接木します。すると、みかんは病気にかからず、みずみずしいみかんができます。ぶどうの木は、以前は接木をしませんでした。しかし、今は国際化して、根から外国の病気が入るようになり、根は病気に強いものを使い、そこから上は別のぶどうを接木するようになりました。わたしたちも自分だけでは、神さまにつながることができない、神さまから栄養も水ももらえない、すぐに病気にかかる根を持つ木です。しかし、いったん切り倒され、この世とつながっていた根を断ち切られイエス様とつながれば、この世界をおおっていた病気から守られ、神さまの栄養と水を十分もらえます。使徒パウロは、ロマ書の中で、その方が途中で折られ、根から切り倒されたのは、わたしたちがその上に接木され、その方があずかっておられた神さまの力をわたしたちがいただくためだと言っています。わたしたちは、自分だけでは神さまにつながることはできません。しかし、イエス様と結ばれていれば、イエス様が神さまからもらっておられた栄養と水を十分いただき、この世界をおおっている病から守られ、神さまが望まれていた実をつけることができます。聖書にしばしば永遠の命という言葉が書かれています。それは別のところにあって、自分の命が消えた後、与えられる命のことではありません。信仰を持って生きる時、その人は、永遠のいのちを持たれるイエス様とつながり、その実を自分の中に育てます。収穫の日に、枝は捨てられますが、その人自身はイエス様の永遠の命をもらった実として神さまのもとに置かれます。これから聖餐式をしますが、その食卓でイエス様が与えたいものはぶどう酒ではありません。ご自分の中を流れている永遠の命です。イエス様の約束の言葉と共にそれを飲む時、それはまことのいのちになり、みなさんを永遠の命を持つ実に育てます。共に、主につながる1本のぶどうの枝になりましょう。
(ヨハネ21:15-19)
(ヨハネ21:15-19)
2012年05月11日
先週の説教要旨(2012/5/6)
イエスは三度目に言われた「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」ペテロは「わたしを愛するか」と三度も言われたので、心をいためてイエスに言った「主よ、あなたはすべをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」聖書は、密接な羊と羊飼いの関係を、神さまと人間、王さまと民の親密な関係にたとえてきました。羊には自分たちに心をかけ、配慮してくれる羊飼いが必要です。羊飼いも、羊を守り、正しい道に導いて、自分の務めを果たしました。それでイエス様もペトロに、あなたは羊飼いになって、わたしの羊を養いなさいと言われました。羊を守り、羊を正しい道に導き、羊を憩いに入れ、永遠のいのちに至らせること、それが羊飼いとしてのイエス様の務めであり、そして、イエス様に従う弟子の務めでした。しかし、ペトロは、それを3度、尋ねられました。ペトロはかつて、イエス様を裏切り、十字架から逃げ、イエス様を見捨てました。また、この後、起こることですが、ペトロは教会の指導を巡って指導力のなさをまわりの人たちから指摘され、エルサレムにいることができなくなります。その後、実際そうだったのか分かっていませんが、ローマにたどり着き、ローマで迫害が起こるとふたたびローマを逃げだそうとしました。しかし、逃げる途中、ローマに向かって進まれるイエス様と出会い「わたしはもう1度、十字架にかかる」と聞かされ、ローマに帰ることを決心しました。そして、イエス様と同じでは申し訳ないと、頭を下にする逆さ十字架にするよう申し出、ローマで亡くなったとされます。今朝の福音書の箇所の最後にも、ペトロは自分の本意ではない死を遂げたことが語られています。人々が期待するようなイエス様の1番弟子ではなく、イエス様の羊を飼う羊飼いとしても、指導力も決断力もない、知恵も勇気もない、心もとない弟子でした。それで、イエス様から3度も「あなたはわたしを愛しているか」と尋ねられ、ペトロは、自分の弱さを思い知らされ「わたしがあなたを愛していることは、あなたがよくご存じです」と答えるしかありませんでした。イエス様は、自分がいなくなり、これからつまずき、迷う羊のことをよく知っておられ、弟子たちに群れを任されました。ペトロたちはこれから群れを愛するには、何よりも、自分たちにイエス様が持たれていた愛がなければ不可能なことを知りました。(ヨハネ21:15-19)
2012年04月30日
先週の説教要旨(2012/4/29)
イエスは彼らに言われた「さあ、朝の食事をしなさい」弟子たちは主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。今から80年前に亡くなった人で、レバノンで生まれ、アメリカで活躍した詩人でカリール・ジブランという人がいます。聖書に裏付けられた詩を残し、それが「生きる糧の言葉」という題名で出版され、今もアメリカで読まれる本100冊の中に挙げられます。その本の中に「分かち合いについて」「食事について」書かれた詩があります。「分かち合いについて」持ち物を分かつのではなく、あなた自身を分かつこと、それこそ本当の施し。たくさん持っているのに、わずかしか分かち合わない人がいる。わずかしか持っていないのに、すべてを与えてしまう人がいる。苦しみの中で与える人は、苦しみを洗礼とする。あなたが得たものは、すべて神が与えたもの、感謝こそふさわしい。「食事について」あなたの食卓を祭壇にし、犠牲となった命をまつり、そこで礼拝をしなさい。生き物を殺すのだから、自分もいつか同じように消えることを思い、命を委ねてくださった方の手に、いつか自分も戻ることを思いなさい。何かを分かち合うということは、自分を差し出すということです。差し出したものの中にその人自身がいます。ですから、自分を愛してくれる人が作り、差し出してくれた料理は格別です。食べ物の豊かさ貧しさではなく、そこにその人自身が差し出されているのを感じ、それをおいしくいただき、感謝します。教会の真ん中にはテーブルがあります。食事をする食卓です。わたしたちはここで食卓をはさんでイエス様と出会い、イエス様がご自分を捧げられた礼拝に参加します。差し出されているものはイエス様ご自身です。このテーブルを祭壇にし、わたしたちはいのちをもらいます。そして、このいのちに生かされ、自分もいのちをささげる礼拝を家庭で、社会でします。教会だけでなく、家庭でも、食堂でも、食卓を中心に同じ礼拝をしましょう。
2012年04月27日
先週の説教要旨(2012/4/22)
「このふたりも、ほかの人々の所に行って話したが、彼らはその話を信じなかった。その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった」今日の福音書は、イエス様はよみがえられたとどんなに聞かされても、それを信じることができなかったお弟子さんたちのお話しです。自分の目で見、自分の手で触れば、彼らもイエス様はよみがえったと確信できるはずでした。しかし、お弟子さんたちは他の人からイエス様はよみがえったと聞くだけで、自分はまだ1度も出会っておらず、それでイエス様の復活を信じることができませんでした。「イエス様の復活」は、最初から誰も信じられない、誰からも相手にされない福音でした。しかし、この福音が教会を支え、イエス様の弟子たちの不信仰とかたくなな心を癒しました。受難週の折、遠藤周作氏が書いた「沈黙」についてお話しをしました。イエス様は沈黙を通して、最後に大切なことをお弟子さんたちに教えられました。それは、答えは十字架を生きてみることの中にあるということでした。この本の中で、遠藤周作氏はもう1つのキリストの姿を描きました。それは、変わって行くキリストでした。自分の信仰の世界で死んでしまったキリストではなく、自分より先を歩かれ、自分の信仰を破り、人々と共に生きられるキリスト。そのキリストとの出会いが、不信仰でかたくなな心の持ち主である主人公を救いました。遠藤周作氏が書こうとしたキリストは、よみがえり、今も生きておられるキリストでした。キリストは今もよみがえります。人の不信仰とかたくなな心を癒やすためにです。そして、よみがえり、今も生きている自分と共に働くように、弟子をこの世に遣わされます。わたしたちの日々の生活が、この方の復活によって支えられます。日々、信仰も心も新しくされますように祈ります。
2012年04月20日
先週の説教要旨(2012/4/15)
イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる」本日はご存じのように、この後、故・平田正子姉の葬儀を行います。主の復活を祝うイースターに愛する姉妹との最後の礼拝を共にできますことを感謝いたします。平田姉を支え導いた十字架と復活の信仰を、今日、わたしたちも聞きましょう。イギリスの児童文学作家でC・S・ルイスという方がいます。世界の3大ファンタジーの1つ「ナルニア国ものがたり」を書きました。英国国教会を代表するクリスチャンとしても有名です。しかし、C・S・ルイスはかつて13歳の時、大人の世界を垣間見て、キリスト教信仰を捨てました。しかし、31歳の時、ふたたび信仰を取り戻しました。信仰を取り戻したのは車の運転中でした。C・S・ルイスは、その後、どうして人々はキリスト教信仰を誤解し、また、人にも誤解させてしまうのかこう言っています。信仰をわたしたちの家にたとえるなら、わたしたちは信仰や祈りを、その家の修繕として、神さまにお願いする程度のものと考えています。しかし、それはおかしいのです。神さまがしてくださることは、わたしたちの家の修繕ではありません。わたしたちの家をそのままそっくり新しいものと取り換えられることです。わたしたちは一瞬にして自分の古い家から立派な城の中に、広大な神さまの国の中に移り住むことになります。わたしたち一人一人が、罪人として神さまの恵みを浴びるように生きる時、そこは神の家にされるのです。この人は自分の信仰の死と復活をキリストの十字架とよみがえりの中に見ました。
(マルコ16:1-8)
(マルコ16:1-8)
2012年04月13日
先週の説教要旨(マルコ15:21-41)
昼の12時になると、全地は暗くなって、3時に及んだ。そして3時に、イエスは大声で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と呼ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。詩篇22編は、イエス様が十字架の上で最後に唱えられた詩編です。ユダヤの人たちは今でもそうですが、聖書を丸暗記していて、最初の言葉を聞くとそれが聖書のどこに書いてある言葉なのかすぐに理解しました。イエス様が十字架の上で最後に唱えられた言葉は、詩篇22編の言葉でした。この詩編は、最初は苦しみ、絶望の歌ですが、最後は神さまが自分の希望であり、自分はそれを果たすために生まれ、生きれたことを感謝する言葉で終わっています。十字架の上で語られたイエス様の最後の言葉は、絶望の言葉ではありませんでした。自分の苦しみを通して神さまがなされる救いの確かさを歌い、これが人の希望になり、自分を見た人たちの心が清められ、満たされ、喜びに至るようにと歌われました。そして、たとえ自分は死んでも、魂は命を得、神さまのこの救いを後の世まで、自分に代わって語りついでほしいと歌われました。イエス様はこの歌を自分の最後の言葉として歌い、息を引き取られました。遠藤周作氏が書いた「沈黙」は神さまはなぜこの世界に対して沈黙されるのか、遠藤周作氏が自分なりの答えを出すために書いた作品でした。その最後の場面に、遠藤周作氏が見つけた答えが書かれています。長崎奉行は「基督は、人々のために、たしかに転んだだろう。さあ、あなたもこの世で1番つらい愛の行為をするのだ」と踏み絵を示し「形だけ踏めばよいのだ」と司祭に言います。司祭はそれにうながされ踏み絵を踏み、長崎奉行は司祭を転びバテレンとして生かすため、妻をあてがい、寺の坊主にします。しかし、司祭は踏み絵を踏んだ時、キリストの声を聞きます「踏めば良い、わたしは踏まれるために来たのだからと」十字架は神さまの沈黙です。そして、わたしたちも、イエス様の弟子たちや女性たち、パウロもそうであったように、十字架に取り組み、神さまの沈黙と戦うしかありません。イエス様は十字架を通して、すべての人をそこに招かれています。十字架は人に絶望しか与えません。しかし、そこに足を踏み入れる時、イエス様はよみがえり、わたしたちを救いの道に入れるため、声をかけてくださいます。
2012年04月02日
先週の説教要旨(2012/4/1)
「わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」数学者であり哲学者だったパスカルは、当時、少したるんでいたキリスト教に活を入れるため、信仰書を書こうとしました。しかし、39歳の若さで亡くなり、構想を書いたメモだけが残り、それが後に「パンセ」と呼ばれる本になりました「人間は考える葦である」「クレオパトラの鼻がもし低かったら」という有名な言葉もそこに散りばめられています。その中でパスカルは、人々は聖書に関して2つの間違いをしているということを書いています。1つは人々は聖書にはこの世が善くなると書いてあると考えていることです。もう1つは人々は聖書には人間が善くなると書いてあると考えていることです。パスカルは、聖書はどこを開いても人間のことやこの世のことをほめていない。そして、神さまの言葉を聞いたらこの世が善くなるとも、聖書の言葉に従ったら人間が善くなるとも、どこにも書いていないと言いました。むしろ、聖書がずっと言ってきたことは、この世や人間はいつも神さまに逆らってきた。神さまの言葉を無視し曲げてきた。今まで1度も神さまの思いに従ったことがない。いつも逸れてきた。それが書いてあると言いました。ですから、パスカルは、人間が聖書から学ばなければならないことは、信仰を持った人間のすばらしさではなく、神さまを持たない人間の惨めさだと言いました。そして、聖書に書かれている人間の惨めさを学ばずに神さまに近づくなら、かならずその信仰者は間違った信仰者になるだろう。その信仰は高慢になるだろうと言いました。聖書から、人間の栄光や信仰の誉れ、それらを取り出そうとする読み方をするならば、その人の信仰は最後は絶望に至るだろうと語りました。聖書の言葉に従えば人間は善くなる。この世は善くなる。そのような読み方をする人は、聖書が言ってきた人間の罪は人間にはまったくないという読み方をしてしまいます。そして、そのような読み方をする人は、人間は人間の力で自分たちを救うことができる。神さまはいなくても人間は救われるという信仰に至るだろうと言いました。受難節にわたしたちが学ぶべきことは、ただ主イエスの十字架です。
(ヨハネ12:36b-50)
(ヨハネ12:36b-50)
2012年03月26日
先週の説教要旨 (2012/3/25)
ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」人々が蛇にかまれるようになったのは、荒れ野を旅することに疲れ、神さまとモーセに不平不満を言うようになり、人々の不信仰があらわになり、神さまが炎の蛇を送り、人々の罪を裁かれたからでした。そして、人々は蛇にかまれて死ぬ人々を見て、自分たちの罪を悔い、神さまに憐れみを求め、神さまは蛇にかまれた者が死なないですむ方法をモーセに教えられました。それが、自分たちをかんだ蛇を見上げれば生きるということでした。自分たちをかんだ蛇を見上げて生きるとは、自分たちの罪を見上げ、神さまの裁きを認めて生きると言うことですが、それは息子の横っ面を殴り「ただで持って行こうという気持ちがなくなるまで、あんたは毎日、このスーパーの前を通って帰りなさい」と万引きした息子にお母さんが言ったのと同じで、自分たちの罪を見上げることが救いになりました。そして、イエス様は、自分の十字架も罪の裁きだけど、神さまの裁きを認めて生きるなら、罪の中にあっても人は生きると言われました。かつて、マルチン・ルターは神さまのことを憎んでいました。ルターは神さまを愛そうにも、神さまが自分を罰し、自分の罪を永遠に赦さないのを感じ、神さまを愛することができませんでした。ところが、ある日、神さまはすでに、神さまの裁きから逃れる道を用意してくださっていることに気づきました。それがイエス様の十字架でした。十字架の前に立つ時、人の義は壊されます。しかし、代わりにイエス様の義が与えられ、イエス様に仕える新しいからだと新しいいのちが人に与えられます。信仰の新しい道を歩きましょう。
(ヨハネ3:13-21)
(ヨハネ3:13-21)